雑草園の根っこ戦争
菊とヤクザ
野の菊とはどんなだろう。むかし、野紺菊という、
鮮やかな青い菊が、野原に普通にみられたとか。今は
外来種との混雑で?すっかり白くなってしまったようだが、
葉の形で見分けることができる。また、リュウノウギク
というのは、優雅な小菊で、たまに背の高い雑草にヒョロリ
と寄りかかっているのをみかけるが、鉢で肥培すると、
よく茂って栽培ギクより美しいとキツネは思う。ヨメナ
なんかは子供の頃の原っぱではお馴染みの花だった。
菊とヤクザ
🦊: ルース・ベネディクトは、その研究を出版するに
あたって、本人の発案で、タイトルを「菊と刀」とした。
菊とは皇室、刀は(第二次世界大戦までの)日本人の
国民的特性として、武士を頂点とする「階級性」を
意味する。「国葬」直後の今、政治をめぐる環境を
言い表すなら、「菊とヤクザ」だろうか。
現に、元首相のお膝元山口県では、安倍家の跡目争い
が始まり、地元住民を抱き込んで・・・とか、
現在の首相についても、後継者として急遽御曹司を
首相秘書官に・・などと巷の噂になっている。
そしてその背後には「統一教会」がいて、票の
取りまとめを手伝っているらしい。階級性は撤廃されても、
その代わりに「ヤクザのシマ争い」が日本政治の特性に
なっている。
彼ら議員は議会で何をしておられるか?政治学者諸氏によれば、
一般に「議会は法律を作る場所」と思われているが、そうでは
なくて、それは「議論の場」である。提案された法の中身につき、
保守、革新の双方が議論を戦わせ、結果、成立か廃案かが決まる
ものだそうだ。
そうだとすれば、「議論が第一」のはず。ヤクザ内閣の場合は、
議論を避ける、議会を開かせない、特有のアイマイ言葉で
事実を隠す、など、「議論無用」で閣議決定が優先することになる。
これには日本語のアイマイさが大いに役立っているだろう。
「丁寧な説明」などと言うのもその一つ。「事実に基づく説明」
ではなくて、「相手を刺激しないよう言葉を選んでツク嘘」
のことだったりする。
論理的でない、なんて言われても、「論理的って何さ!そんなんは
野党の屁理屈だ」と言う風呂屋の喧嘩みたいなのが、議員諸氏の
頭の中身なんだから、対話が成り立たない。それは議会に限った
ことではなく、「何で反対するのさ?反対なんかするから分断が
起きるんじゃないか」と言う庶民も多いだろうう。非論理的
(アイマイな)日本語と、いにしえよりのお上崇拝が依然として
頭をを占める。
自発的隷従の日米関係史
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ーー自発的隷従の日米関係史ーー
松田武史 著 岩波書店 2022年 刊
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p165 「おわりに」ーーより
「沖縄返還とは何だったのか」
🛑 沖縄返還協定が、協定締結後の日米関係ならびに日本に
及ぼした影響について要約したい。
1つは、沖縄米軍基地の自由使用の主張並びに沖縄返還協定の
締結は、米国の長年の願望であり続けてきたが、その米国の
主張が、沖縄返還交渉を通して日本政府によって容認されたこと。
2つは、沖縄返還協定の中で謳われている「本土並み」の返還とは、
従来から米国が固守してきた沖縄米軍基地の自由使用権が日本本土
にも同じように適用されることを意味したこと。
3つは、佐藤、ニクソン日米両首脳は、1969年11月21日の共同声明
において、「沖縄施政権の返還は、日本を含む極東の諸国の防衛
のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げになるような
ものではない」と宣明した。日本が米国に沖縄および日本本土の
基地自由使用権を容認したことは、基地の自由使用の適用範囲を
決定する権利が、米国に事実上委ねられたことを意味する。
それと共に、協定締結以降、世界戦略を展開する米国の判断と決定
次第で世界各地において、沖縄および日本本土の基地から米軍の
軍事展開が可能になったことを意味していた。
4つは、米国は、沖縄返還後、核兵器を沖縄から撤去すると約束
した。それが沖縄返還交渉の表の部分であるとすれば、裏の
部分は、朝鮮半島、台湾、東南アジアでの非常事態の際には、
沖縄および日本本土への核兵器の搬入および貯蔵することに
対して日本が米軍に最大級の柔軟な対応をすることを保証
ーー即ち日本は米国に「否(NO)」と言わない約束(密約)をした
ことであった。その約束は1960年の日米安保条約で合意された
事前協議制度の形骸化に繋がる重大な決定であったことを意味
している。言い換えれば、「本音」と「建前」の使い分け、
すなわち日本の伝統的思考枠組みによって、政府指導者
はじめ大部分の国民は、精神的ストレスの比較的少ない、気楽に
「依存していたい」方を選択していると考えられるのである。・・
そして、「日本が米国に守ってもらっている」という負い目から、
「いかにすれば日本の安全を守ってもらえるか」、「米国を
怒らせない」方法、「米国とうまく付き合う」方法、いわゆる
「日米同盟をいかに維持し、管理するか」といった日米同盟の
運用方法が彼ら間では大きな関心事となっているように思われる。
p9 日米同盟の捉え方ーー3つの行為主体ーー
戦後日米関係について、筆者は3つの行為主体が、ある時は国際
舞台で協力し、また別の時は反発しながら、2国間関係を築いてきた
と考えている。第1の行為主体が米国、第2が日本の保守勢力、
第3が日本の国民と考えている。・・(🦊: 第1の行為主体についての
記述は割愛、後のライシャワー大使についての章に譲る)
第2の行為主体としての日本の保守勢力は大きく分けて、
1つは戦前から戦後までを生き延びた保守政治家と、戦後新たに台頭
した経済界の指導者並びに国家官僚から成る日本の支配層である。
前者は、吉田茂、鳩山一郎、芦田均、岸信介、それに旧財閥の
末裔などで、後者は金融界および産業界の指導者、それに
植田俊吉などの大蔵省および外務省の国家官僚など、いわゆる
「同盟の橋頭堡」の役割を果たす勢力である。
もう一つの保守集団は、中小都市の指導者や農・漁村部の大半
の住民から成っている。彼らは、関税問題など自己の経済利益
や、インフラ開発事業計画など居住地域の利害に直結する問題に
関心を示すが、国際問題に関心を示すことは少ない。ゆえに、
彼らの対外政策への影響力は、時折のロビー活動や陳情の場合を
除き、限定的である。しかし、彼らが保守主義者であることに
変わりはなく、前者との共通点は反共産主義にあった。
要するに、保守勢力の関心は、日本独自の「天皇制を基本と
しつつ国民統合」のあるべき姿、いわゆる「国体」を
共産革命の脅威から護ることと、「資本主義」即ち私有財産
制度を脅かす共産主義拡大の阻止、それに日本の文化的伝統を
堅持することにあった。保守支配層は、反共産主義であると
同時に、現実主義的なプラグマティストで、かつナショナリスト
であった。かれらは、占領期に米国から導入された「自由」や
「人権」、それに「民主主義」の政治理念を受け入れ、広めて
行くことよりも、失われつつある戦前の日本の伝統的な価値や
制度を再び復活させることの方に熱心であった。
米政府の対日交渉担当官は、交渉相手である日本政府の高官が、
「貴国が私たち日本政府に何をして欲しいのかをご教示ねがい
たい。但し、公の場で私たちに圧力をかけるようなことは
しないで頂きたい」(Tell me what you want us to do.
But don’t press us publicly.)と口にするのを、しばしば耳に
するという。「寄らば大樹の蔭」や「長いものには巻かれろ」
の諺や、ここに引用した対日交渉担当官の発言にも表れているように、
日本の保守的な指導者は、戦後日本が生き延びていくには、世界の
覇権国である米国と手を結び、米国に政治、経済、文化のすべての面で
依存しつつ、運命を委ねて進んで行くことが、「現実的」かつ唯一の
「選択肢」であると信じているように思われる。・・・
(少数の例外を除いて)大多数の保守主義者は、対米一辺倒や対米追従の
方針が正しいということは歴史的にも経験的にも「証明済み」であると
考えている。
ところで、保守支配層には大きく分けて次の2つの対米姿勢が見受けられる。
1つは、「打算的現実主義」の対米姿勢である。それは日米の非対称的な
国力の違いから、卑怯にもはじめから4つに組んで真正面から徹底的に
議論する気のない、あるいは、最悪のシナリオとして交渉の決裂を覚悟
してまでも自国の立場を主張する信念や主体性に欠けた「打算的現実主義
者」のそれである。
2つは、「米資日脳(American Money .Japaese Brain)型」日米協調論者
の対米姿勢である。それはちょうど「負けて勝つ」の諺やお家芸の柔道技の
ように力において日本を圧倒する米国を、日本に有利な方向に誘導し、
米国の力を利用して、日本の国力の増進を図る日米協力論者のパターン
である。その先例は、1920年代の対中国政策において幣原喜重郎、
出淵勝次などの外務省高級官僚、実業家渋沢栄一などが唱えた「米資日脳」
論に窺うことが出来る。
米国との交渉の際は、敗者という弱い立場にあった日本の外交エリート
たちは、相手の顔色をうかがい、日本は米国に「見捨てられる」のでは
ないかと必要以上に気を揉むことが多かった。(中略)
p17 第3の行為主体としての日本国民ーーその横顔ーー
第3の行為主体とは、知識人や文化人並びに‘Attentive Public’
(注意深い公民)と呼ばれる人たちからなる市民層である。
「注意深い公民」は、農民、主婦、会社員、労働者、学生、商店主など
様々な人たちからなる市民層である。
一般に、知識人(通称インテリ)は、アカデミック・インテリから政策
インテリ・それに実務インテリ、さらにテレビ番組に出演するタレント・
インテリまで、多様な人たちからなる社会集団である・・
第1の知識人グループには、戦前の諸価値に固執する超保守主義者や、
中道リベラルの知識人もいなくもないが、大半は、穏健な保守主義者
から成る学識経験者である。かれらは、時の世俗「権力」や「権威」に
有機的に結びつき、教育機関やマス・メディアを通して、大資本や
支配的な政治集団の論理を国民の間に普及、浸透させることが自分の
社会的役割であると捉えている。そうすることで彼らは大勢順応型
の世論形成に貢献するのである。
p47 変わりそうで変わらない米国の深層文化
🛑独立達成後、ヨーロッパから北米大陸に移住した白人は、18世紀
から19世紀にかけて西方へ広がる自由地を求め、領土拡張を押し
進めたことはすでに述べた。西漸運動の過程で、アメリカ先住民に
対する人種退去や虐殺行為がしばしば行われた。一方、
南部では黒人に対する人種差別や虐待暴力事件が奴隷制度の下に
おいて頻発した。これらの蛮行の背景には、白人の有色人種への
恐怖ならびに人種差別感情があった。
時代は下る1950年代。日米政府は1950年代の初めに対日平和条約
の内容を巡って激しく議論を闘わしていた。米国内では「マッカーシー
旋風」(赤狩り)が吹き荒れ、黒人差別もひんぱんに行われていた時期
であった。南部諸州では、人種隔離と黒人に対する人種差別がまるで
日常茶飯事のように行われていた。
ところで人種隔離政策は、白人住民が安心して暮らせるように人種間に
越え難い壁を作り、黒人への恐怖感を和らげることに主眼があった。
合衆国憲法は「法の前の平等」の原則を高らかに謳ったにもかかわらず、
「必要は法をも曲げる」の強弁と人種隔離政策によって、南北戦争後、
南部白人の人種差別意識と恐怖心が心の奥深くまで温存されることに
なった。そのために、白人の黒人への暴力や抵抗意識が弱められると
いうよりも、むしろ人種差別意識が暴力を正当化する手助けにも
なった。そのことが、米国において人種、民族を問わず数多くの
良民を現在まで悩まし続けることになった。
次に、米国の対日外交姿勢に見られる米国の深層文化について
更に深く掘り下げたい。米国は、対日占領期は勿論のこと、
日本が独立を回復した後も、引き続き日本を「勝者」の目から
ながめており、かつて戦場だった沖縄は勿論のこと、日本を、
あたかも自分の家の「裏庭」のように米国の一部と見做していた。
そして、米政府は、日米2国関係において、「日本問題」を、
米国の思い通りに処理出来ると信じて疑わなかった。
軍部も激戦の末占領した「沖縄」を手放すことなど一瞬も
考えていなかった。そういうわけで米国防省内部では
「沖縄は米軍が大変な犠牲を払って確保した島である。
せっかく多大の犠牲を払って確保した東洋一の工業国だ。
なんでみすみす手放せようか」といった発言がしばしば
聞かれた。
しかし、米国が第二次世界大戦の主要な戦勝国であったとはいえ、
「沖縄」占領統治、ましてや沖縄の領有問題となると、ことは想像するほど
単純ではなく、ハードルは極めて高かった。筆者は、「沖縄問題」を複雑
かつ難しくしている要因の一つに、米国がそれまで辿ってきた膨張主義の
歴史とその影響があったと考えている。
その影響力の一つは、建国にまつわる米国の国民国家としての
アイデンティティの問題であった。英帝国の植民地であった米国は、
戦争(武力)によって独立を勝ち取った。当時、ヨーロッパ諸国の大半が
君主国であったのに対して、米国は君主を持たない共和国としてスタート
した。米国は、共和主義と「反帝国主義」を自画像として大切にしてきた。
19世紀に入ると、米人口の自然増加に加え、ヨーロッパ各地からの大量の
移民が米国に流入するようになった。それに伴い、東北部から西部への
国内移住、すなわち西漸運動が高まった。西方に広がる広大な土地への
欲求が国民の間に強まる中で、米国は「マニフェスト・デスティニー」の
掛け声の下に隣国メキシコと干戈を交え、その結果、136万平方
キロメートルの広大な領土(現在のテキサス州、コロラド州、アリゾナ州
ニューメキシコ州、ワイオミング州の一部およびカリフオルニア州、
ネバダ州、ユタ州の全域)を手にいれた。
歴史研究者の間では、19世紀は帝国主義の時代であると言われている。
米国人が自国のアイデンティティとして「反帝国主義」の自画像を
抱いていたにせよ、米国のメキシコに対して取った行動が、ヨーロッパ
帝国主義国のそれと何ら変わるものではないことは、誰の目にも
明らかであった。確かに、米国は力を行使して欲望を満たすことは
出来たが、しかし、それによって大きなジレンマに陥ることに
なった。それは、いかにして米国は反帝国主義国家としての自画像に
傷を付けることなく、国民の更なる領土欲求を満たすかという問題
であった。メキシコに「贖罪金」を支払い、反帝国主義国としての米国の
自画像とアイデンティティを守ろうとしたのである。加えて、キリスト教国
としてメキシコ国民に対する「罪悪感」や「良心の呵責」を多少とも
和らげようとした。
さらに米国は、1898年の米西戦争の際にも、米墨戦争の時と同じ
ような行動を敗戦国スペインに取っている。米西戦争後、米国は、
スペインの領地であったフィリピン諸島を領有する際に、パリ講和
条約(1898年)及びワシントン条約(‘1900年)を結び、スペインに
1000万ドルを弁済することに同意した。そうすることによって、
米国は、本来ならば「帝国主義」との批判を受けることになる
「海外領土の領有」への贖罪に努めた。
同時に、米国の海外膨張主義の動機が、ヨーロッパ帝国主義
のように搾取と「利己主義」にあるのではなく、「現地人を
教化」し、「文明を伝播する」という純粋な目的と利他主義に
あると主張して、米国とヨーロッパ帝国主義との違いを強調した。
第3部 ・自発的隷属の固定化ーーよりーー
p89 ライシャワーと日米新時代
🛑 「60年安保」闘争は米大統領訪日中止を余儀なくさせただけ
ではなく、岸内閣を退陣に追い込んだという点で、私たちの
記憶に残る大規模な大衆政治運動であった。さらに、「60年安保」
闘争は、政府の多くの指導者を含む、当時全米で屈指の知日派
として知られていたライシャワーにとっても、彼の対日認識を
大きく揺るがす大事件であった。
ライシャワー教授は、安保騒動の事件をとりあげて、1960年に
「日本との断たれた話」(The Broken Dialog with Japan)という
題の論文を「フォリン・アフェアーズ」に投稿した。彼は、安保
騒動を戦後日本史における重要な転換点であると同時に、「戦後
日本の政治と日米関係にとって最大の危機」と位置づけた。
ライシャワーは、安保騒動の原因を、日本についての米国側の
情報不足とアメリカ大使館の人材不足にあると捉える一方、
安保騒動を日米騒動の「最大の危機」と呼んだ。・・・
さらに、大使館の人材不足の問題に加えて、ライシャワーは、
アメリカ大使館の態度や姿勢にも問題があると考えていた。それは、
アメリカ大使館が「安保反対」を叫ぶ日本人を十把一絡げにうマルクス主義者とみなし、彼らに対して剥き出しの「パワー
と敵意」、それに反共産主義を露骨に表した形で応答していた
という点であった。そのような対応はマッカーサー・ジュニア
駐日アメリカ大使の場合、特に顕著であったという。
ライシャワーは、そのような対応の仕方では、親米的に
なる可能性のある多数の日本人を反米に追いやってしまうだけ
でなく、彼らを共産主義陣営に追いやってしまうことになると
心底から心配していた。
ライシャワーは、「安保騒動」によって露呈されたアメリカ大使館の
諸問題を是正するには日本の国民との幅広い接触が重要かつ必要と
考えた。・・
p92 ライシャワー米大使の課題
ライシャワー米大使は、東京での記者会見において、「米国が世界各地に
軍事基地を展開するのは世界平和を維持するためであり、それは米国
及び世界に脅威を及ぼしている好戦的な勢力に対抗する防衛的な性質の
処置である」と説明し、米国の動機の純粋性を強調した。そして彼は、
日本の左翼系知識人が、米軍基地の世界的展開を帝国主義だとか
「基地租借帝国」だと決めつけ、米国の善意や動機の純粋さを理解も
せずに米国を批判し、誤解していることを大変残念がっていた。・・
ライシャワーと同じく、日本専門家のファーズも、日本の知識人に
大いに失望していた。ファーズによると、日本の知識人は60年の
安保条約の改定が世界平和を希求する米国の「善意」に基づいたもの
であることを理解していないということであった。加えてファーズは、
日本を共産主義の侵略から守り真の中立と独立を維持するためには、
再軍備するしか選択肢はないことについて真剣に考える知識人が皆無に
近いことを大変残念に思っていた。・・
更にファーズは、「もし米国民や議会が日本国内での発言や出版の内容を
もっと知っていたら、日本の貿易は深刻な影響を受けていたかも
しれない。日本がある程度守られているのは、米国が(その内容を)
知らないからである」と日記に書き記した。ところで、ファーズの
この発言は、米国民の多くが日米安保条約を「一方的に日本に有利な
条約」と見ていたことを示唆している点で興味深いと言えよう。
というのは、日本の国民も少なからず日米安保条約に対して被害者意識
と不満を抱いており、日米両国民の間にはある種の「認識のずれ」と
「相互不信」の溝を見てとることが出来るからである。
p94 ライシャワー大使の安保条約観
ライシャワーが、(1960年の新安保条約の改定を)「経済的にも、
政治的にも、軍事的にも米国や自由世界にとって年を重ねる度に
日本の重要性がますます明らかになってきている」との現状認識を
述べた後続けて、なぜならば、在日米軍基地および在沖縄米軍基地
が利用できて初めて、東アジア全域に対する米国の軍事プレゼンスの
実効性が発揮しうるからだ、と持論を力説した。・・(中略)
要するにライシャワー大使は、日本本土と日米新時代(1960年代)に
おける米国の最重要課題は、日本と「長期にわたる恒久的安全保障協定
を結ぶことであると考えていた。そうすることで、米国は日本から
「自発的な対米協力を引き出すことが出来るというのであった。
ライシャワーは、「(在日米軍基地の自由使用を可能にする)日米安保
条約の効果が発揮されるには、一にも二にも日米安保条約に対する
日本国民の圧倒的な支持が得られるか、そして、国民の支持を維持
できるかどうかにかかっている」と考えていたからである。また、
1960年の安保騒動が立証したように、国民の支持は得られて当然
とこれまでのように軽く考えてはいけない。努力して勝ちとらなくては
ならないものである」とライシャワーは考えていた。・・
ライシャワーが、日本国民との幅広い「対話」をいかに重視して
いたかは、ハーバード大学時代からの友人ファーズを、駐日アメリカ
大使館文化広報担当官に起用したことにもよく表れていた。
というのは、それまでは政治担当と経済担当の2名の公使が
起用されていたが、ライシャワーが大使に赴任してからは、
広報文化担当の公使が新たに加わり、政治、経済、広報、文化担当の
公使からなるトロイカ体制が採用されたからである。
p98 「イコール・パートナーシップ」の構想
ライシャワーが発信した「イコール・パートナー」のメッセージは、
(日本国民に向けて)これまでの対米依存の生き方を見つめ直し、
これからは日本人が責任感の強い国際人に育ってほしいと願う彼の
熱い思いが込められていた。というのは、ライシャワーは、日本国民が
近視眼的で国際問題にも現実的に対応できないこと、さらに、日本政府が
「弱者の恐喝」の手法を使って米国から多くの資金、情報、技術を手に
入れ、米国に全面的に依存していることを、これまで嫌というほど見て
きたからであった。・・
他方、ライシャワーの米国民向けのメッセージには、日本人を米国の
真の「イコール・パートナー」として対等に扱うよう、これまでの日本人
に対する態度を今一度見直すことへの期待がこめられていた。
一つは、日本人に対して父親のように振る舞うパターナリズム(温情主義)
の言動や、日本人を見下したような態度が対日占領期の米国人にしばしば
見受けられたことが挙げられる。もう一つは、今や日本の経済が、
北アメリカ経済と西ヨーロッパ経済と共に、自由世界の3大コンビナートの
一つに位置づけられていることから、日本をこれまでのように軽く扱う
わけにはいかないという現実があった。さらにイコール・パートナーの言葉
は、経済成長の真っ只中にあって敗戦からようやく立ち直り自信を取り戻し
てきた日本人の耳に心地よく響いただけでなく、「日米対等」を意味する
「パートナー・シップ」は、日本国民の自尊心をおおいにくすぐる言葉でも
あったからである。
(日米のイコール・パートナーシップの具体的な中身を彼は明確に述べて
いないが、この関係は)1970年代から2010年代にかけて厳しい試練に遭遇す
ることになる。
それは、田中角栄内閣による1972年の日中国交正常化外交と、翌年の日本
独自の資源供給を目指した資源外交、それに2010年の民主党鳩山由紀夫内閣
による「普天間基地取り扱い問題」の形で現れることになる。イコール・
パートナーシップの「自覚と責任」が何を意味していたかを理解するには、
米国の対日政策が「善意からではなく明確に自覚した自らの利益に基づいた
ものであり、その主たる目的が「日本の行動の自由を制御し、日本を米国の
管理下に置くこと」にあったことを今一度想起する必要があろう。
ライシャワー米大使の計画が、親米派と国民との対話を通して新しい
日米関係の中立主義への傾斜に「歯止めをかける」ことにあったことは
すでに述べたとおりである。
しかし、後にライシャワーは、そもそも3委員会(経済、文化、科学)の合同
委員会の設置の動機が「日本人の神経を逆撫でしかねない日米関係の軍事色
を薄める」点にあったことを彼の「自伝」の中で明らかにしたのである。
p173 「日米関係の人間化のために
🛑 日米関係の人間化(humanization)を促進するための筆者の提案内容は
次の通りである。
一つ目は、米国民とのコミュニケーションの対象を、首都ワシントン行政府
の高級官僚や政治家に限定するのではなく、連邦議会議員の選挙区が点在
する全米各地の有権者まで広げることが重要と考えている。そうすることで
初めてコミュニケーションの輪が多くのアメリカ市民、大学教員、大学生
などにも広がっていくことが期待できよう。
2つ目は、そのためには、すでに説明したように、日米関係を含む国際問題
に関心を抱いている日本国民、とりわけ知識人や文化人は、自分の意見を
英語で分かりやすく表現し、それを著書にするなり、論文にするなどして
発表し、まずはアメリカ市民に自分の思いを届けることである。自分の
意見を発信する際には、アメリカ留学やさまざまな日米交流活動を
通して築いた人的ネットワークは網の目のように全米各地に張り巡らされる
ことになり、それを通してアメリカ市民の日本理解が深まっていくことに
なろう。一部の国民の間には、「米国は一旦言い出したら他者の意見に
耳を傾けるどころか、どんなことがあっても意見を変えない国だ」といった
歪んだ米国の固定観念が見受けられる。しかし、米国には外国人の意見に
真摯に耳を傾け、真剣にそれから学ぼうとする良心的な人も多いことを
筆者は体験上知っている。
私たち国民がそのような地道な努力を重ねていけば、諸外国から見て
負の結果を齎しかねないと思われる、自国中心的、あるいは「独善的」
とも受け止められかねない米国の行動に歯止めを掛けられるかもしれない。
あるいは全く不必要と思われる軍事力の行使を米国に思いとどめさせる
ことになるかもしれないからである。そのことは、短期的および中・長期的
には米国の大国としての信用低下を未然に防ぐことになり、それが究極的
には米国の国益に資することにもなるであろ。さらに、そのことは、「自分
の意見を述べない」、「のべたがらない国民」、「いつまで経っても自国の
意見を持たない国」、「主体性に欠ける国」、「自国の行動に責任を
持てない自治能力に欠ける国」、「真の主権国からは程遠い国」といった
日本に関する否定的な固定観念や偏見を大きく変えることにも繋がるで
あろう。
p176 新たな価値の発見へ
🛑 私たちは、国の安全と平和維持のためには、半ば諦めの境地から核の
抑止力に依存することを仕方のないことと受け止めてはいないだろうか。
私たちは、「核の抑止力」に代わる新たな「価値」と「術(すべ)」を創造
する十分な努力をし続けているだろうか。それとも、核の抑止力に依存
し続け、その虜に堕してはいないだろうか。・・
これからも我が国が、国際社会の品位ある国として尊敬されたいと願う
ならば、私たちは世界の多種多様な人々が抱えるニーズや問題に取り組み、
国際社会の一員として無理のない範囲でしっかりとその責務を果たして
いくことが大切であると考えている。・・
現在の私たちが選んでいる選択肢と姿勢は、私たちを当事者意識の希薄な
弱々しい国民にしてはいないだろうか。別の表現をすれば、本来、「自由」
とは常に人に緊張をもたらすものである。それゆえに、自由をかけがえの
ない価値と考える人たちは、模索し、考え抜くことにより今よりも一段と
民度の高い成熟した人間に成長するのではないだろうか。
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菊と中国人
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菊にみる中国と日本の心」 商金林著 (北京大学中文教授)
(月刊誌 疾走する中国・躍動する13億 より)
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🛑中国の菊花栽培の歴史は、周の時代(紀元前1066~
771年)まで遡ることが出来る。奈良時代の末期、菊は
薬草として中国から日本に伝えられ、すぐに日本の
上層社会の注目をあつめた。宮廷や貴族の庭には、みな
菊が植えられた。・・
野のあちこちに散らばって咲く、さまざまな色鮮やかな「黄花」
(中国での別称)は、日本に「持ち込まれて」から、権勢や
尊厳、崇高のシンボルになり、皇室や貴族の愛玩する珍しい
花となった。皇室や貴族の紋章は、もとは蓮の花だったのが、
のちにみな、菊花に変えられた。・・
豊臣秀吉は、1595年、自分以外、すべての家臣は菊を
紋章に使ってはならないと命じた。菊は、江戸時代にあって
初めて宮廷から民間にだんだんと広まり、文人、学者や
庶民まで菊を栽培する権利を得たが、菊の(紋章の)使用権
は、皇室にほぼ独占されていた。1868年、日本の「太政官布告」
195号は、菊花を最高権威の象徴として天皇のみがこれを独占
し、天皇の専用のとすることを規定した。もし民間で誰かが
菊の紋章をみだりに使えば、「不敬罪」で厳しく処罰された。・・
日本は外国の文化を「持ち込む」のが非常に上手な国である。
一生懸命にそれを吸収し、できる限りそれを理解し、改良を
加え、元のものを遥かに超えるものとしてしまう。中国から
持ち込まれた菊を「国花」に昇格させたのは、実によい証拠
である。・・
「高尚な歴史」を持ち、「雅やかな風俗がある」我が中国では、
菊は聞一多の「菊に思う」で書いているように、「4千年の
中華民族の名花」であり、日本とはまったく異なる含意が込め
られている。それは、中華民族が菊を詠んださまざまな詩作
から見てとることができる。
もっとも有名なのは、当然のことながら、東晋の詩人陶淵明が
詠んだ「菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る」である。
この詩は広く世の人々に好かれ、朗詠されてきた。高潔な
志や世俗を超越した境地がこの詩に表されている。その境地
のなかで、菊と人間は渾然一体となっている。・・
🛑 たとえば、黄巣の天地を覆そうとする反逆の詩にしても、
鄭思肖が菊を「寒風を恐れない」と詠んだのもまた菊を讃嘆
して聞一多が「金の黄、玉の白、春耕の緑、秋山の紫」と詠った
のも、その着想はいずれも陶淵明の「菊を採る東籬の下、悠然
として南山を見る」というあの詩と相通ずるものがある。強調
されているのは菊の「美」ではなく、菊の「魂」である。・・
こうした「魂」は、高潔で、世俗に媚びず、自立を求める知識人
の品性を投影したものといえるであろう。その意味で菊は、松、
竹、梅と同じように、一種の精神と品格のシンボルとなっている。
ところが、中国人が褒め称えた菊の「魂」は、「大和民族」の
「国民性」とは融和し得ないようだ。日本の社会で強調されている
のは、「忠」であり、絶対的服従である。芳賀矢一は「国民性十論」
の中で、日本の国民性の特徴は第一に「忠君愛国」、第二に「祖先
崇拝」」であり、・・・第三に「「現世的」「実際的」を挙げている。
ここからもわかるように、日本人が愛するのは菊の「魂」ではなく、
「黄花」の純粋な美とその「味」である。実際、日本には「食用菊」
という食べられる菊があるのだ。
あるいは、日本の菊の「魂」は、単に「高貴」という一つの含意しか
込められていないのではないか。私たち中国人が菊について言う
「孤吟」「傲霜」(霜の寒さに屈しない)「鉄骨霜姿」「寒香」「味苦」
などと言う形容は、大和民族にはおそらく理解されないだろう。・・
(2001年12月号より)
**********************************************
🦊: 参ったねー、まったく。北京大学中国語教授とあれば、
レトリックは完璧。(もっとも、これは上流知識人にとっての菊が
彼らの「魂の象徴」であるという話なので、例えば「ちょっと
お願い。どこかの病院でモルヒネを少々手にいれられないかなー?」
なんていう来日中国人のことではない。また、日本人の特徴と
される「忠」「絶対服従」が中国では皆無なんですかね?とか、
チャチャを入れたくなるが、やめとこ。)
キツネはあまり中国文学には縁が無いが、「紅楼夢」は大好きで、
文庫版12冊というのを持っているが、なんとなく気分が落ち込んだ
ときなど、これを読むと元気が出たりする。
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ーー「源氏物語はいかに訳されたか」ーーー
翻訳家・文潔若
「人民中国 (本社中国) インターネット版 2006年
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「この記事の無断転載を禁じます」とあるので、その一部分だけを
要約させてもらう。
まず、「紫式部の『源氏物語』の書かれたのは1004年から1044年、
ダンテの『神曲』より300年早く、ボッカチオのデカメロンより350年
も早い。更に『紅楼夢』が出版されるのは700年も後である」とし、
次に周作人(魯迅の弟)が手紙の中で、「源氏物語」について書いた
文を紹介している。
🛑 彼はこう書いている。「源氏物語が完成したのは、中国では
宋の太宗の頃であり、中国で長編小説が発達するまでにはなお
500年を要した。・・・これは実に、唐の時代の「紅楼夢」ということも
できる。唐朝の時代の文化の豊かさをもってすれば、このような大作が
生まれて然るべきだと感じる。しかしどうしてこの栄光が藤原家の女性に
奪われてしまったのか」
🦊: はい、ここまで。最初に源氏物語を中国語に訳した豊子愷の4年に
わたる作業を補佐した文潔若さんの語る面白いエピソードがNETでなら
読める。最後に彼女はこう付け加える「これほど多くの中国人に愛されて
いる「源氏物語」は、知らず知らずのうちに、中国の文学にも影響を
与えているに違いない」
アラ探しブログのつもりはないので(少しはあるか)、キツネの言いたいのは、
「我が民族は偉大なり」とプーチン流に宣伝するのではなく、「躍動する13
億」の実態を率直に語り、「後進国日本」への「アドバイス」も含めて、
激論を恐れずに語り合うことが 、特に岸田氏と習氏に必要な「度量」では
ないだろということだ。1対1では目も合わせないというんじゃあねー。
🦊: 下の写真はリュウノウギク。「菊に似てる」なんていう人がいるが、
とんでもない。これはれっきとした菊科の日本固有種・・などと怒ることも
無いが、ヨメナやリュウノウギクまでもが大陸から引っ越してきたわけでは
あるまい。
我が魂を聖地に埋めよ
👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓 👓👓👓👓👓 👓👓我が魂を聖地に埋めよ デイー・ブラウン著
1970年にアメリカで 出版
1972年草思社刊 鈴木主税(スズキ チカラ)訳
👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓 👓👓👓👓👓👓👓👓下巻 p9) キャプテン・ジャックの試練
🛑私はただの一人だが、人々の声である。かれらの心に何が あるのかを
、私が話す。私はもう戦争を望まない。ただ、人間に なりたいのだ。あなた
は私に対して、白人の持っている権利を 拒んだ。私の皮膚は赤いが、心は
白人の心と同じだ。私は モドック族である。死を恐れないし、おとなしく
岩に横たわる こともしない。私が死ぬ時、敵は私の下敷きになるだろう。
あなたの兵隊が攻撃したのは、ロスト・リバーで戦っている時 だった。彼ら
は私を、傷ついたシカのように、あの岩に追い詰めた。 ・・・ 私はこれまで
いつも白人に、私の土地に来て住めと言った。そこは 彼らの土地であり、
キャプテン・ジャックの土地である。 ここに来て私と一緒に暮らしても
かまわない。そうしたからと言って 腹を立てたりはしないと言ってやった
のだ。私は誰からも一銭も 貰わず、買ったものについては支払いをした。
私は常に白人のように 暮らしてきたし、まさにそうしたいと望んでいた。
いつでも平和に 生きようとし、人に何かを求めたことなど決してなかった。
銃で撃って殺し、罠によって捕らえた獲物によって、常に暮らしを たてて
きたのだ」ーーモドック族、キントブッシュ(キャプテン・ジャック)
カリフォルニアのインデイアンは、彼らの住む土地の気候のように大人し
かった。スペイン人は彼らに名前を与え、教会を建て、改宗させ、 そして
彼らを堕落させた。部族組織はカリフォルニアのインデイアンの 間では、
それほど整備されていなかった。個々の村には指導者がいたが、 この戦争が
嫌いな人々の中からは、大戦闘酋長は生まれなかったのである。 1848年に
金が発見されると、世界中から数千人の白人がカリフオルニアに 押しかけ、
そこに住むおとなしいインデイアンから自分たちの欲しい物を 奪い、それ
以前にスペイン人が堕落させていなかった者を堕落させ、今では 忘れられて
久しい土着の人々を組織的に絶滅へと追いやった。 チルラ、チマリコ、
ユレブレ、二ぺワイ、アロナといった名前をはじめ、 およそ100を超える
バンド(部族)のことは、もはや誰の記憶にも残って いない。彼らの骨は100万
マイルにも及ぶ高速道路や駐車場や地方住宅の 石の土台の下に埋もれて
しまったのである。 カリフォルニアの無抵抗なインデイアンの唯一の例外
は、オレゴンとの境 に位置するトウーレ湖の近くの比較的厳しい風土に住む
モドックだった。 1850年代までは、モドックはほとんど白人の姿を目に
しなかったが、 やがて移住者がひきも切らずに群れをなしてやって来る
ようになり、 モドック族が大人しく諦めるだろうとあてにして、彼らの一番
良い土地を 占領した。モドック族が戦う気勢を示すと、白い侵入者は相手を
皆殺しに しようとした。 だがモドック族は待ち伏せをかけて仕返しをした。
この時期に、 キントブッシュという名の若いモドックは成人しつつあった。
モドックが 白人と殺し合いなどせずに一緒に暮らすことができないのはなぜ
か、彼には 分からなかった。 トウーレ湖地方は空のように果てしがなく、
シカもカモシカもアヒルも鴨も 魚も、そしてカマス(百合科植物)の根も、
すべての人間の必要を満たすに 足りた。キントブッシュは、白人と平和な
関係を結ぼうとしない父を 諌めた。 酋長だったその父はキントブッシュに、
白人はすぐに裏切るから彼らを追い 出さぬかぎり平和は望めないのだと
語った。それから程なく、酋長は白人 移住者との戦いで殺され、
キントブッシュがモドック族の酋長となった。 キントブッシュは白人の
居住地へ行き、信用できる白人を見つけて、彼らと 和議を結ぼうとした。
ワイリカで、彼は善良な人々と会い、じきにすべての モドックがそこで
交易をするようになった。「白人が私の土地を訪れるたび に言ったものだ」
とキントブッシュは語っている。「家をたてて住みたけれ ばそうしても
かまわない、と。「私は、彼らがこの土地にやってきて我々と 一緒に暮らす
ことを望んでいた。白人と一緒になりたかったのだ。若い酋長 は、彼らの
着ている服、家、幌馬車、立派な家畜も気に入っていた。 ワイリカに住む
白人は、自分達のところを訪れるそれらのインデイアン に新しい名前をつけ
た。モドック族の者はそれを面白がり、しばしば仲間 同士でもその名前を
使った。キントブッシュはキャプテンジャック だった。・・・ 白人が南北
戦争を始めた頃、モドック族と白人の間にもめ事が起こった。 モドック族の
者は、家族を養うためのシカを見つけて殺すことができない 場合、しばしば
農場者の牛を殺し、馬が必要になれば移住者が放し飼いに している馬を無断
で借用したのである。モドック族の白い友人たちは、 インデイアンがその
土地を移住者に使わせる代償として課した「税金」 だと考えて、そのことに
目をつぶったが、移住者の大半は腹の虫がおさまら ず、自分達を代表する
政治家に働きかけ、条約によってモドック族を トウーレ地方から排除しよう
とした。 条約委員はキャプテンジャックをはじめ他の主だった者たちに、
北に移動 してオレゴンの保留地に入れば、自分の土地に数頭の馬と幌馬車、
農機具、 必要な道具、衣類、食料がすべての部族にあたえられ、それらは
いずれも政府から支給されると約束した。キャプテン・ジャックはトウーレ
湖の近くに自分の土地を持ちたがったが、委員はそれを認めなかった。
いくらかためらったあげく、ジャックは条約に署名し、モドック族は北に
移ってクラマス保留地に入った。だが、最初から紛争が生じた。その保留地
はクラマスインデイアンの領土に属し、クラマス族はモドックを侵入者と
みなした。モドック族が木を切って柵を作り、割り当てられた農地を仕切る
と、クラマス族がやってきてその柵の横木を盗むのであった。 政府が約束
した品物はついぞ送られてくる気配がなかった。(ワシントンの 大会議は、
モドック族の支給品を購入するための予算を認めなかったので ある) 部族の
者が飢えに苦しむ有様を目にすると、キャプテンジャックは全員を 引き連れ
て保留地を出た。彼らはかつて住んでいたことのあるロスト・ リバー渓谷に
入り、猟獸や魚やカマスの根をさがした。しかし、その渓谷に 住む白人は、
モドック族がその近くをうろつくことを好まず、政府当局に しばしば苦情を
訴えた。キャプテンジャックは部族の者に白人から遠ざかっ ているように
注意したが、300人のインデイアンが白人の目につかない ようにしているの
は容易なことではなかった。1872年夏、インデイアン 総務局はキャプテン
ジャックに警告を発し、クラマス保留地に戻るよう 通達した。ジャックは、
自分の部族の者はクラマス族と一緒には住めないと 答え、昔からモドックの
土地だったロスト・リバーのどこかにモドック族の 保留地を作ってくれと
要求した。インデイアン総務局はその要求を妥当な ものと考えたが、農場主
たちはその肥沃な牧草地がわずかなりとも インデイアンに与えられることに
は反対だった。 1872年秋、政府はモドック族にクラマス保留地に帰れと命令
した。 ジャックがそれを拒否すると、軍隊にモドック族を強制的に送還する
任務が 与えられた。1972年11月28日、冷たい雨のなかをジェームズ・
ジャクソン 少佐の第1騎兵隊所属の38人の騎兵からなる1個中隊はクラマス砦
を出ると、 ロストリバーに向かって南進した。夜明け前に騎兵隊はモドック
族の野営地 に着き、馬を降りて銃を構え、小屋を包囲した。・・・ ジャック
が姿を見せると、ジャクソン少佐は、モドック族をクラマス保留地 に連れ戻
せという大統領の命令を伝えた。「行くことにしよう」とジャック は
言った。「部族の者を全員連れて行くが、私はあなた方白人の言う一切の
ことを、もう信用しない。いいか、あなたは私のこの野営地に、まだ暗い
うちにやってきた。私と私の部族の者はおびえた。私は逃げも隠れもしな
い。私に会いたければ男らしくやってきて、私と話をしろ」 ジャクソン少佐
は、自分は面倒を起こすためにやってきたのではないと 言った。そして
ジャックに、部族の者を兵隊の前に集めろと命令した。 それが済むと、少佐
は隊列の外れにあるヨモギの茂みを指して、「あそこに お前たちの銃を置
け」と命令した。「なんのために?」とジャックはたずね た。「お前は酋長
だ。お前が銃を置けばお前の全ての部下がそれに倣う だろう。言う通りに
すれば、何も面倒は起こらないのだ」 キャプテンジャックはためらった。
部下が武器を放棄したがらないことは わかっていた。「私はこれまで白人と
戦ったことはない。戦いたいとも 思わない」と彼は言った。キャプテン・
ジャックは銃をヨモギの茂みに 置き、他の者に自分に倣えと合図した。
インデイアンは一人ずつ進み出て、 tそれぞれの銃を重ねていった。
スカーフェイスド・チャーリーが最後 だった。彼は自分の銃を既に積まれて
いる山の上に置いたが、ピストルは 腰につけたままだった。少佐はピストル
を渡せと命令した。 「俺の銃をとりあげたではないか」とスカーフェイスド
が答えた。 少佐はフレーザー・バウテル中尉に声をかけた。「あいつを武装
解除 しろ!」「そのピストルをよこせ、キサマ、早く!」とバウテルは前に
進み ながら命令した。スカーフェイスド・チャーリーは声を上げて笑い、
自分は 犬ではないのだから怒鳴るなと言った。バウテルは腰の拳銃を抜い
た。 「このろくでなしめ、返事の仕方を教えてやる」。スカーフェイスドは
自分 は犬ではないとくりかえし、ピストルはそのまま持っているつもりだと
付け加えた。バウテルが手にした拳銃をかまえると、スカーフェイスドも
腰から拳銃を抜き、二人は引き金を引いた。モドックの銃弾は中尉の上着の
袖を撃ち抜いたが、スカーフェイスドには弾丸は当たらなかった。そして
彼が、すぐさま武器の山に近寄り、その上から自分のライフルを取り上げる
と、モドックの全ての戦士がそれに倣った。騎兵隊の指揮官は部下に発砲を
命じた。しばらくの間活発な撃ち合いが続いていたが、やがて兵隊は後退
し た。一人の死者と7人の負傷者は、その場に置き去りにされたままだっ
た。 その時までには、モドックの女と子供は丸木舟に乗り、南のトウーレ湖
目指して懸命にこいでいた。キャプテンジャックと戦士たちは、うっそうと
茂る葦に身を隠しながら、岸伝いにその後を追った。彼らは湖の南の
モドック族の伝統的な避難所、カリフォルニアのラヴァ・ベッド(溶岩地帯)へ
と急いだのである。 ラヴァ・ベッドは燃え尽きた火の土地で、その一帯は
至るところにほら穴や クレヴアスが散在し、100フィートの深さに切れ込ん
でいる谷もあった。 キャプテンジャックが自分の砦として選んだほら穴は、
噴火口を思わせる 大きな空洞で、自然の胸壁がその周囲を取り巻いていた。
ジャックは、自分の部下の者はわずかな戦士でも、必要ならば軍隊を相手に
戦えることを知っていたが、今は兵隊が自分たちをそっとしておいてくれる
ことをのぞんでいた。
🦊 (ここで事件が起こった。フッカージムの率いる少数のバンドは、
キャプテンジャックの野営地の対岸で野営していたが、兵隊と数人の白人が
彼らの野営地に近づき、だしぬけに発砲し始めた。一人の母親が抱いていた
赤ん坊と年取った女を殺し、数人の男に負傷させた。 フッカージムとその
部下は、死んだ仲間の復讐のため、逃走の途中で農場を 襲って12人の白人
移住者を殺した) 🛑殺された移住者の中には、ジャックがよく知っていて、
信用していた者が
何人か含まれていた。野営地に現れたフッカージムに、彼
は詰問した。 「私の友人を殺してくれなどと頼んだ覚えはない。お前たちは
勝手にそんな ことをやったのだ」キャプテンジャックは、今や間違いなく
兵隊がやって くると覚った。復讐のためとあらば必ず彼らはやってくる。
そしてモドック 族の酋長であるからには、彼がフッカージム等の犯罪の結果
を引き受け なければならないのであった。・・・ キャプテンジャックは、
部族会議を開き、部族員に自分の考えを伝え、説得 しようとした。「平和
委員(政府から派遣された白人の仲裁人)と交渉し、 フッカージムのバンドを
救うとともに、保留地として良い土地を獲得した い。私がお前たちに求める
のは、自制して待ってもらいたいということだ」 と彼は言った。しかし、
フッカージムとその仲間たちは、「平和委員の 腹黒い策略には何度も騙され
た。兵力が整い次第、彼らは我々に飛びかか り、 最後の一人まで殺して
しまうだろう」と言った。そして、この次の和平会議 の席で平和委員を
殺そうと提案した。「我々の酋長ならば、この次に顔を 合わせた時に
キャンピー将軍(ワシントンのグレート・ワリア・シャーマンか ら当時の
平和委員会の監督官として派遣されていた人物)をお前が殺せ」 約50人の
男のうち、わずか12人ほどの彼の忠実な配下だけが反対した。 「キャンピー
との会談で、モドック族の望むところを将軍に訴える」と ジャックは言っ
た。 「何度も要請することにしよう。それで彼が条件を呑んだら殺さない。
わかったか?」 「わかった」」と全員が言った。 「それでも良いか?」
「良い」と全員が同意した。 1873年のグッドフライデーは晴れで、兵隊の
キャンプとラヴァ・ベッドの 山塞の中間にまだ残っていた会議のテントの
厚い布を、冷たい風がはためか せていた。遅れて到着した委員はテントに
着くと、持参した葉巻を一人ひと りに配り、焚火の燃えさしを使って火を
つけると、全員が火を囲んで石に 座り、しばらく間黙って煙をふかした。
フランク・リドルが後に回想して いるところによれば、キャンピーが最初に
発言した。「彼は、自分はもう かれこれ30年もyインデイアンと接触して
いることになるが、ここに来たのも 平和な関係を結び、じっくりと話し合う
ためなのだと言った。さらに、何で あれ与えると約束したものは必ず手に
入れられるようにするし、自分に ついてくるならば、すばらしい土地に連れ
てゆき、そこに落ち着かせて やる。そうすれば、白人のように暮らせるだろ
うと言った」・・・ キャプテンジャックは、自分たちはモドックの土地を
離れたくないのだと 言い、トウーレ湖とラヴァ・ベッドに近いどこかに
保留地を作ってくれと 求めた。 ミーチャム(政府委員の1人)は、ジャックが、
前と同じ要求を繰り返したので いらだっていた。彼は声を張り上げ、「子供
のように振舞うのはやめて、 男らしく話をしようではないか」と言った。
そして、平和に暮らせる場所に 保留地が見つかるまで、それを望むモドック
はラヴァ・ベッドにいても かまわないという提案をした。 ミーチャムと10
フィートほど離れて、差し向かいに座っていたションチン・ ジョン(モドック
族)が、その時怒気を含んだモドック語で、委員に黙れと 言った。その瞬間、
フッカージムが立ち上がって委員の傍らにつないで あったミーチャムの馬に
近づいた。ミーチャムの外套が鞍に乗せてあった。 フッカージムは外套を
取り、袖に手を通すとボタンをかけ、焚火の前を いくらかおどけながら歩き
回った。 他の者は話をやめて彼を見守った。「ミーチャムに似ていると思う
か?」 と彼はおぼつかない英語で訊ねた。 キャンピーは明らかにフッカー
ジムの言葉の意味を察した。彼は 「ワシントンにいるグレート・ファザー
だけが兵隊を移動させる権利を もっているのだ」と言い、ジャックに自分を
信じてくれと求めた。 「ぜひ言っておきたい、キャンピー」とジャックが
答えた。「あの兵隊が 取り囲んでいる限り、われわれは平和を結ぶわけには
いかないのだ。 いずれこの土地をのどこかに家を建てさせると約束する
つもりなら、 今日約束してくれ。さあ、キャンピー、約束するんだ。他に
望みはない。 今がチャンスだ、お前の話は聞き飽きた」 ミーチャムは
キャプテンジャックの声に容易ならぬ緊張を聞き分けた。 「将軍、御生だか
ら約束してやってくれ」と彼は叫んだ。 キャンピーに口を開くといとまを
与えず、ジャックが出し抜けに焚火から 離れ、ションチン・ジョンが将軍の
方に向き直った。「兵隊を引き上げて、 俺たちに土地を返せ」と彼は叫ん
だ。「おしゃべりには飽きた。もう話し合 いはしない」 キャプテンジャック
が振り向き、モドック語で言った。「オト・ウエ・ カウ・タクス・エ」(用意
はいいぞ!) 彼は上着の下からピストルを抜き、 まともにキャンピーに狙い
をつけた。 🦊 キャンピーは死んだ。キャンピーの軍服を剥ぐと、ジャック
はモドック たちを率いて山塞に帰り、兵隊の来るのを待った。歩兵隊が山塞
を陥れた とき、そこは既にもぬけの殻だった。兵隊が外部から補給され、
隠れ場を 突き止め、逮捕に向かうと、キャプテンジャックは待ち伏せをかけ
て、 先遣隊に致命傷に近い打撃を与えた。 🛑それからほどなく、
フッカージムのバンドは兵隊に降伏し、特赦と引き換 えに
キャプテンジャックを狩り立てる手助けをするとすると申し出た。・・ 彼ら
はクリアーレイクの近くでジャックを発見し、交渉を持ちかけ、自分 たちが
やってきたのは降伏を勧めるためだと言った。兵隊はモドック族を 公平に
処遇し、食物も豊富だと彼らはジャックに言った。 「お前たちはこの谷間を
うろつくコヨーテにも劣る」とキャプテンジャック は言った。「お前たちは
兵隊の馬に乗り、政府の銃を持ってここへやって きた。私を追い詰め、兵隊
にひき渡して、自分たちの自由を買い取るつもり なのだ。 生命が快いという
ことに気づいたらしいが、あのキャンピーという男を殺す 約束を私に迫った
時には、お前たちはそう考えていなかった。私はいつでも 生命が快いということを知っていた。だからこそ白人と戦うことを望ま なかったのだ。戦う
ことになれば、我々は手を携えて、戦いながら死ぬのだ と考えていた。今に
なって分かったのは、キャンピーほか2、3名の者を 殺したために命を失うの
は、私ひとりだということだ。お前たちと降伏した 他の連中はうまく立ち回
って、食物も豊富だということらしいな。鳥の ように陰険な心を持った者
たちよ、お前らは私を裏切ったのだ。・・・」 ギザギザの岩と灌木の茂みを
縫っての激しい追跡ののち、少人数の一部隊 が、キャプテンジャックと、
最後まで彼と行動を共にした3人の戦士を包囲 した。降伏するために姿を
あらわしたジャックは、キャンピー将軍の 青い軍服をまとっていたが、
それはひどく汚れ、ボロボロになっていた。 彼は銃を1人の兵士に手渡し
た。「ジャックの足はくたくただ」と彼は 言った。「死ぬ覚悟はできて
いる.
🦊 フッカージム以下153人の生存者はインデイアン・テリトリーに追放
され、ほとんどの者が世を去った後の1909年に、政府は残りの51人の
モドックにオレゴンの保留地に帰る許可を与えた。「キャプテンジャックの
死体は密かに発掘され、防腐処置を施したのちにカーニヴァルの見世物と
して展示され、観覧料は17セントだった」
p47 野牛を救うための戦い
🛑 聞くところによると、あなた方はわれわれを山の近くのに保留地に 定住
させるつもりだそうだが、私は定住したくない。草原を歩き回るのが 好きな
のだ。草原にいれば自由を満喫し、幸福でいられるが、定住する 我々は青白
くなって死んでしまう。 私は槍を捨て、弓も盾も置いたが、安心してあなた
方の前に出られる。 私はこれっぽっちも嘘をついていないが、委員たちの方
はどうなのか わからない。彼らは私と同じように潔白なのか?その昔、この
土地は われわれの父のものだった。だが、川へ行ってみると、岸に兵隊の
キャンプが出来ていた。そこの兵隊は私の木を切り倒し、私の野牛を 殺して
いる。それを見て私の心は張り裂けんばかりになり、悲しみで いっぱいに
なった。・・・ 無慈悲に獲物を殺したままそれを食べない白人は、子供に
なってしまった のか?赤い皮膚の人間が獲物を殺すのは、生命を保ち、飢え
ないため なのだ。ーーーカイオワ族酋長サタンターー
私の部族のものが先に白人に対して矢を射たり発砲したりしたのではない。
この問題をめぐって双方の紛争が起こり、私の部族の若者は戦いの踊りを
踊ったが、そのきっかけを作ったのは我々ではなかった。あなた方こそが
先に兵隊を送り込んだのであり、我々はそれに応じたに過ぎない。2年前に、
私は野牛を追ってこの街道へやってきた。私の妻と子供がまるまると太り、
身体が温まるようにしてやるためだった。だが、兵隊が我々に発砲し、
その時から雷鳴のような音は絶えず、我々には行き場がなくなって しまっ
た。カナデイアン川のほとりでもそうだった。それに、1人になって 泣いて
いるわけにもいかなかった。青い服を着た兵隊とユート族は、暗く なって
あたりが静かになった夜、出し抜けにやってきて、我々の小屋に火を 放ち、
焚火のように燃やしたのだ。獲物を殺す代わりに、彼らは私の部下の 勇者を
殺し、部族の戦士たちは死者のために髪を切って短くした。テキサス でも
そうだった。 彼らは我々の野営地に悲しみをもたらし、我々は雌の野牛が
殺された時の 雄の野牛のように出かけて行った。我々は白人を見つけては
殺し、彼らの 頭皮は我々の小屋に吊るされた。コマンチ族は弱くもなければ
盲目でも ない。生まれて7日目の仔犬とは違う。成長した馬のように強く、
遠くが 見えるのだ。我々は白人の道を奪い、そこを進んでいった。白人の女
は 泣き、われわれの女は笑った。 だが、あなた方が私に言った言葉で、気に
入らないことがある。その言葉は 砂糖のように甘くはなくて、ヘチマの実の
ように苦い。あなた方は われわれを保留地に移し、家を建て、病気を治す
小屋をつくってやりたい のだと言った。私はそんなことは望まない。私は
草原に生まれた。そこには 快い風が吹き、太陽の光を遮るものは何もない。
私が生まれた場所には 囲いなどなく、全てのものが自由に呼吸していた。
私はそこで死にたい。 壁の中はいやだ。リオ・グランデとアーカンソーの間
のすべての小川と すべての森を私は知っている。私は、以前に父たちが暮ら
したように 暮らし、彼らと同じく幸福だった。 ワシントンに行った時、
グレート・ファザー(大統領)は私に言った。 「すべてのコマンチの土地は
われわれのものであり、誰も我々がそこに 住むことを妨げない」と。それ
なのに、なぜあなた方は、我々が川と太陽と 風に別れを告げ、家の中に住む
ことを求めるのか?われわれに野牛を 諦めて羊にしろなどと言ってはいけな
い。若者はその話を耳にし、悲しみ、 怒っている。そのことはもう話さない
でくれ。・・・ テキサス人が私の土地から出てゆけば、きっと平和がおとず
れよう。だが、 あなた方がいま我々に住めと言った土地は、あまりにも狭
い。テキサス人が 取った場所は草が豊かに茂り、一番良い木がはえるところ
なのだ。 そこが我々のものになっていたら、あなた方の求めに応じるだろ
う。 だが、もう手遅れだ。白人はわれわれが愛していた土地を取り、 今や
われわれは死ぬまで草原をさまようことを望むばかりなのだ。
ーーーヤムバリカ・コマンチ族。パラ・ワ・サメン(テン・ベアーズ)ーーー
1868年12月のワシタの戦いののち、シェリダン将軍は、シャイアン、
アラバホ、カイオワ、コマンチの諸部族全員に、コップ砦に出頭して 降伏
せよと命令し、それに応じなければ青色服の兵隊に狩り立て られて殺され、
絶滅の憂き目を見るだろうと伝えた。 死んだブラック・ケトルの跡を継いで
酋長となったリトル・ローブが シャイアン族を連れてきた。イエロー・
ベアーがアラバホ族を出頭 させた。しかし、誇り高く自由なカイオワ族は、
その呼びかけに 応ずる気配を見せずシェリダンはハード・バックサイド・
カスターを 派遣して、彼らを強制的に屈服させ、あるいは壊滅させる ことに
した。 カイオワ族にとって、コップ砦へ行き、武器を捨て、白人の施しに
すがって生きるのは意味のないことだった。酋長たちが1867年に 署名した
メデイシン・ロッジ条約は、彼らに住む場所を与え、 アーカンソー川の南の
どの土地でも「野牛が群れをなして徘徊して いる限り」そこで狩をする権利
を彼らに保証していたのである。 アーカンソーとレッド・リバーの西の支流
に挟まれた平原は、 じりじりと押し寄せてくる白人の文明に追われて、北か
ら逃れて きた数千の野牛で埋まっていた。カイオワ族は足の速い子馬を豊富
に 持っており、弾薬が乏しい時には弓を使った。彼らは食糧や衣類や 住居の
必要を賄うに足るほどの獲物を殺すことができた。 それにもかかわらず、
青色服の騎兵の大部隊は、レイニー・マウンテン・ クリークのほとりに設け
られたカイオワ族の冬の野営地にやってきた。 戦いを望まず、サタンタと
ローン・ウルフは護衛の戦士を連れて、 カスターと交渉するために出かけて
行った。 サタンタはがっしりした体格の偉丈夫で、その漆黒の髪はたくまし
い 肩まで垂れ下がっていた。その腕と胸には筋肉が盛り上がり、飾り気の
ない表情には自分の力に対する強い自信が溢れていた。彼は顔と身体に 鮮や
かな赤の塗料を塗り、槍に赤いペナントをつけていた。遠乗りと 激しい戦い
を好んだ彼は、腹いっぱい食べ、心ゆくまで飲み、笑えば 腹の底から笑っ
た。彼に接すれば敵でさえ愉快になった。 カスターを迎えるために馬を進め
ながら、彼は満面に笑みをうかべて いた。だが彼が手を差し出した時、
カスターはそれに触れようとも しなかった。カンザスの砦の近くに居て白人
の偏見を充分に承知して いたのでサタンカは怒りを抑えた。それに
ブラック・ケトルのように 部族の者を殺されたくもなかった。交渉は冷たい
雰囲気の内にはじまり、 二人の通訳が双方の発言を通訳した。 サタンタは、
部下の戦士の一人で白人の御者から多くの言葉を教え られたウオーキング・
バードを呼んだ。ウオーキング・バードは誇らしげ にカスターに話しかけた
が、兵隊酋長は首を振っただけだった。この カイオワの撥音する英語が理解
できなかったのである。・・・ 結局、通訳がサタンタとローンウルフに、
カイオワ族のバンドをコップ砦へ 連れてゆかなければ、カスターの兵隊に
壊滅させられてしまうということを わからせた。さらにカスターは、休戦の
約束を無視して、突然酋長と護衛の 戦士の逮捕を命令した。彼らはコップ砦
に連行され、部族の者がやってきて 一緒になるまで、囚人として監禁される
ことになったのである。サタンタは その一方的な言葉を冷静に受け入れた
が、使いを送って部族の者を砦に 呼ばなければならないと言った。彼は自分
の息子をカイオワの村に派遣し たが、コップ砦に同行せよと命令するかわり
に、西の野牛生息地に逃げろ と警告したのであった。 カスター将軍の軍隊が
コップ砦に戻る間、逮捕されたカイオワのうち、 毎晩数人が逃亡した。
しかしサタンタとローンウルフの見張りは厳しく、 二人は逃げることができ
なかった。 ローンウルフと252人のカイオワはなんとか捕獲を免れたが、
やがて逃げる ことも不可能になった。 1875年2月25日、彼らはシル砦に
たどり着き、降伏した。その3カ月後、 クアナ・パーカーはクワハデイを
引き連れて降伏した。 シル砦では、降伏したインデイアンのバンドは柵の中
に集められ、そこで 兵隊が武装解除した。彼らが持っていたわずかな財産は
山積みに されて焼かれた。保留地を離脱したことについて責任があると
酋長戦士 たちは、独房や、高い壁で仕切られた屋根のない氷室に監禁され
た。 彼らを捕らえた者は、檻の中の動物にあてがうように、毎日生肉の 塊を
投げてよこした。
🦊 軍当局は、フロリダのマリオン砦の地下牢に、サタンタと26人の
カイオワを送り、裁判にかけた。3年後、サタンタは病院の窓から 身を投
げ、ローンウルフも、それから1年後に病死した。 偉大な指導者たちが居な
くなり、かつて強力だったカイオワとコマンチも 消滅し、彼らが救おうと
した野牛も消滅した。その全てが、わずか10年 足らずのうちに起こったこと
だった。(中略)
p97 ブラックヒルズをめぐる戦い ーー1868年の条約ーー 「白人は、この
土地のどこ場所についても、定住し、あるいはそれを占有 することが許され
ず、また、インデイアン許可なくしては、当地域を通る ことも許されな
い。」
ーータタンカ・ヨタンカ(シッテイング・ブルー)ーー
我々は、白人がここに居ることを望まない。ブラックヒルズは私のものだ。
白人がここを取ろうとしたら、私は戦う。白人はまるで蛆虫のように
ブラックヒルズに群がっていて、私は彼らをできるだけ早く立ち去らせて
くれることを望む。泥棒の首領(カスター将軍)は去年の夏、ブラックヒルズ
に道路を通したが、グレートファザー(アメリカ政府)がカスターの仕業に
よる損害の補償をしてくれることを望むーーバプテスト・グッドーー
ブラックヒルズとして知られている土地をインデイアンは自分たちの土地の
中心とみなしているのだーータトケ・インヤンケ(ラーニング・アンテロープ)
グレートファザーの部下の若者は、この丘から金を持ち出そうとしている。
彼らがそこを多くの馬で一杯にしてくれると良いのだが。そのことを考える
につけても、私は部族の者が生きている限り面倒を見てもらえることを望む
(マト・ノウパ(トウー・ベアーズ)ーー
グレート・ファザーが委員に言うには、全てのインデイアンがブラック
ヒルズに権利を持ち、インデイアンがどのような権利を持ち、インデイアン
がどのような結論に達しようと、それは尊重されなければならないと言う
ことだ。私はインデイアンで、白人から愚かな男だとおもわれている。
だが、それは私が白人の忠告に従ったからに違いない。ーーシュンカ・
ウイトコ(フール・ドッグ)ーー
わがグレートファザーは大きな金庫をもっているが、我々もおなじだ。 あの
丘は我々の金庫なのだ。ーー我々はブラックヒルズを700万ドル で手放した
い。その金を利子付きで貯めておいて、家畜を買えるように したい。それが
白人のやり方だ。ーーマト・グレスク(スポッテドベア)
わが友よ、長年の間我々はこの土地に住んでいた。グレイトファザーの 土地
へでかけていって、面倒を起こしたことなど一度もなかった。我々の 土地へ
やってきて面倒を起こし、いろいろ悪いことをやった挙句、仲間に 悪事を
おしえたのは、グレイトファザーの部下なのだ。…‥あなた方の仲間が 海を
渡ってこの国へやってくる以前には、そしてその時から現在までに、 あなた
方が買いたいと申し出たこの土地で、これほど豊かなところはかつて なかっ
た。わが友よ、あなた方が買おうとするこの土地は、我々の持って いる最上
の土地なのだ。……この土地は私のものだ。私はそこで育った。 私の先祖は
ここで暮らし、ここで死んだ。だから私もここに留まりたい。 ーーカンギ・
ウイヤカ(クロー・フェザー)
レッド・クラウドとスポッテド・テイルの引きいるテトン族が北西
ネブラスカの保留地に落ち着いてからほどなく、莫大な金がブラックヒルズ
に埋蔵されているという噂が白人居留地に流れ始めた。パハ・サバ、すなわ
ちブラックヒルズは世界の中心であり、戦士たちが偉大な精霊と語り、 幻覚
を求める神の住居であり、聖なる山であった。1868年に、グレイトファザー
はこの丘を無価値だと考え、条約によってそこを永遠にインデイアンに与え
た。その4年後、白人の鉱山師は条約を侵犯し始めた。彼らはパパ・サバに
侵入し、白人を狂気に駆り立てる黄色い金属を求めて岩の道や澄んだ水の
流れる小川をあさった。それらの狂気の白人が自分たちの神聖な丘にいる
ことを知ると、インデイアンは彼らを殺し、あるいは追い出した。1874年に
は金を渇望するアメリカ人の声がひどくかしましくなったので、軍隊に
ブラックヒルズの偵察が命じられた。合衆国政府は1868年の条約によって
インデイアンの許可なしに白人がそこに立ち入ることが禁じられていたにも
かかわらず、この軍事侵略を開始するにあたって、わざわざインデイアンの
同意を求める手間をかけなかった。赤い桜の月に、1000名余りの騎兵が
エイブラハム・リンカーン砦から平原を越えてブラックヒルズに向かった。
彼らは第七騎兵連隊に所属し、その先頭に立って馬を御していたのは
ジョージ・アームストロング・カスター将軍、すなわち1868年にワシタで
ブラックケトルのサザーン・シャイアン族を虐殺したスターチーフその人だ
った。
スー族は彼をパフスカ、つまりロング・ヘアーと呼んでいた。
ロングヘアーが遠征してきたことを知ると、レッドクラウドは抗議した。
「私はカスター将軍と彼の兵隊がブラックヒルズに入り込むのが気に入ら
ない。あそこはオグララ・スーの土地だからだ。」そこはシャイアン、
アラバホ、そしてスーの他の部族の土地でもあった。インデイアンの怒りが
あまりにも激しかったので、グレートファザー・ユリシーズ・グラントは、
「法令と条約によってその土地がインデイアンのものとされている以上、
そこに侵入する全ての企てを阻止する」決意を披瀝した。
だが、カスターがその丘は「草の根元から下に」金が詰まっていると
報告すると、白人の集団が夏のイナゴのように雲集し、夢中になって砂金を
振るったり、岩を掘ったりした。カスターが補給用の荷馬車を通すため、
パハ・サバの中心部に切り拓いた道は、じきに盗っ人街道となった。
🦊1875年2月1日、内務長官は、「敵対的なインデイアン」がそれぞれの
保留地に出頭する期限が切れたので、彼らの処置は以後、軍当局に委ね
られる旨の通達を行なった。
1976年2月8日、シェリダン将軍は、「敵対的インデイアン」がしばしば
姿を現わすパウダー、トングー、ローズパッド、ビッグホーンの源流に
向かって軍事作戦を行う準備を命じた。
このような政府の機構は、いったん動き始めると仮借のない力を振るい、
無慈悲かつ制御し得ないものとなった。12月の末に各管理所から使者が
送られて、管理所に所属しない酋長たちに出頭を命じた頃には、深い雪が
北部平原を覆い尽くしていた。
クレイジー・ホースのオグララ族は、ベアーバットの近くの冬の野営地に
いたが、そこは盗っ人街道が北からブラックヒルズに通ずる地点当たって
いた。。管理所の使者が雪をついてクレージーホースを訪れると、彼は
丁重に寒い季節が終わるまで行かれないと語った。「出かけて行けば、
人も馬も雪の中でたくさん死んだことだろう。それに、我々は自分の
土地に居たことだし、誰に危害を加えていたわけでもなかった」
それとほぼ同時期に、ノーザンシャイアンとオグララスーの混成バンドが
レッドクラウド管理所を出て、パウダー地方へ向かい、そこで野牛と
カモシカを見つけようとしていた。3月の半ばごろ、彼らはリトルパウダー
川がパウダー川に流れ込んでいる地点から数マイル離れた場所に野営して
いた、管理所に所属していないインデイアンたちと合流した。
トウムーン、リトルウルフ、オールドベアー、メープルトリー、ホワイト
ブルが、そのシャイアンの指導者たちだった。
3月17日の明け方、不意をついて、ジョゼフ・J・レイノルズ大佐の率いる
先遣隊は、その平和な野営地を攻撃した。自分たちの土地に居て、何も
恐れるものがなかったので、インデイアンたちはぐっすり眠っていたが、
そこにジェームズ・イーガン大尉の白馬隊が王列を組んでテイピーの村に
突入し、ピストルやカービン銃を乱射した。それと同時に、第二の騎兵部隊
が村の左側面を襲い、第三の部隊がインデイアンの馬の群れを一掃した。
攻撃を受けた戦士たちの最初の反応は、できるだけ多くの女と子供を、
容赦なく盲滅法に発砲してくる兵隊から逃すことだった。「勇者は手当たり
次第の武器をつかみ、攻撃に立ち向かおうとした」戦士たちは岩棚や大きな
石の背後に陣取った。彼らは兵隊を釘付けにし、女と子供がパウダー川を
渡って逃げるまで頑張った。
「我々のテイピーはそこにあったすべての品物もろとも燃やされた。青色服
は野営地にあった全てのペミカンと鞍をめちゃめちゃにし、インデイアンが
所有していた1200頭〜1500頭に及ぶ馬のほとんどを追い払った」
「その晩、兵隊は眠り、馬は一か所に集めて放置してあった。そこへ我々は
忍んで行き、馬を取り返して立ち去った」
トウームーンとその他の酋長たちは、家を失った人々を伴って、食物と
身を寄せる 場所を求めて、そこから東北に数マイル離れた所で野営していた
クレージーホースを頼って行った。3日余りの寒さと飢えの厳しい旅の末に
たどり着いた。
クレージーホースは避難してきた人々を暖かく迎え、食物と肩掛けをあたえ
オグララのテイピーに彼らの場所を見つけてやった。「お前たちを喜んで
迎える」と、青色服が村を荒らした話に耳を傾けたあと、彼はトウームーン
に言った。「我々はまた、白人と戦うのだ」
「いいとも」とトウームーンは答えた。「戦いの準備は出来ている。おれは
すでに戦った。仲間は殺され、馬は盗まれた。おれは戦うことに満足だ」
気候が暖かくなるにつれ、各部族は北に移動して、野生の獲物と新鮮な草を
探し始めた。オグララとシャイアンを引き連れたクレージーホースの一行
は更にブリュレ、サンサーク、ブラックフットの各スー族と別のシャイアン
のバンドが合流した。「多くの若者が兵隊と戦うために出かけたがって
いた」これらの数千人のインデイアンがローズバッド川のほとりに野営して
いる間に、さらに多くの若い戦士が保留地を出て彼らの仲間に加わった。
そして、青色服の大部隊が3つの方向からやってくるという噂をもたらし
たのは彼らであった。スリースターズ・クルックが南から、ワン・フー
リムプス(ギボン大佐)が西から、ワンスターフー・リムプスが西から、
ワンスター・テリーとロングヘアー・カスターが東から、それぞれ前進して
来たのである。
長い間クレージーホースは、青色服との戦いで自分の力を試す機会を待って
いた。フィル・カーネイ砦におけるフェっターマンの戦い以来ずっと、
彼は兵隊とその戦いぶりを研究してきた。幻覚を求めてブラックヒルズを
訪れるたびに、彼はワカンタンカに祈りを捧げ、白人がまたやってきて
同胞に戦争を仕掛けたならば、オグララを率いて勝利に導く秘密の力を
自分に与えたまえと求めた。若い時から、クレージーホースは、この世に
生きている人間は、本当の世界の影に過ぎないと考えていた。本当の世界に
ある時には、すべてのものが浮遊し、彼の馬はさながら野生にかえり、
あるいは狂ったように踊った。彼がクレイジー・ホースと名乗る由来が
それだった。戦いを前にして夢を見、本当に世界に入れば、自分がどんな
ことにも耐えられることを、彼は知っていた。
1876年6月17日のその日、クレイジーホースは夢を見てほんとうの世界に
入り、白人の兵隊との戦いに際して、スー族に彼らがかつてやったことの
ない多くの戦法を示した。クルックが配下の騎兵に騎馬攻撃を掛けさせた
とき、カービン銃の弾幕に真っ向から立ち向かう代わりに、スーはその
鋭峰をかわして側面を突き、相手の戦線の弱い部分をたたいた。
クレイジー・ホースは部下の戦士を馬に乗せたままにしておき、絶えず
場所を変えては相手を悩ませた。青色服は散兵線をしき、強力な前線を
組むのに慣れていたが、クレイジーホースがその戦法を撹乱したために、
大混乱に陥ってしまった。スーは足の速い馬を駆って兵隊の戦列を寸断して
切り離し、つねに守勢に立たせた。
シャイアンもこの日、めざましい動きを見せ、その面目をいかんなく発揮
した。チーフ・カムズ・イン・サイトは、とりわけ勇敢だったが、兵隊の
側面をついたあと、その馬は青色服の歩兵の隊列のすぐ前で撃ち倒されて
しまった。その瞬間、別の馬と騎手がシャイアンの陣地から矢のように
飛び出して兵隊の注意をそらし、チーフ・カムズ・イン・サイトを援護し
た。すぐさまチーフ・カムズ・イン・サイトはその騎手の背後に飛び乗っ
た。彼を救ったのは、馬の面倒を見るため戦士に同行していた、彼の妹の
バッファロー・カーフ・ロード・ウーマンだった。シャイアンはのちに
この日の戦闘を、娘がその兄を救った戦いとして記憶するようになった。
白人はこれをローズバッドの戦いと呼んだ。
クルック将軍は、グリースクリークの基地に戻り、支援部隊と、ギボン、
テリー、あるいはカスターからの連絡を待つことにした。ローズバッド
付近のインデイアンは、あまりに手強過ぎて一個連隊の兵隊では歯が
立たなかったのである。
ローズバッドの戦いののち、酋長たちは西のグリージー・グラスの谷間に
移動することに決めた。斥候がもたらした報告によれば、そこの西には
カモシカの大群がいて、馬のための生えているということだった。
ほどなく、円陣を成した野営地が、曲がりくねったグリーングラスの
西岸におよそ3マイルにわたって広がった。そこにどれほどのインデイアンが
いたか、誰も正確には知らなかったが、総数は1万人を下ることはなく、
そこには3000人から4000人の戦士が含まれていた。最南端に位置する
上流にはフンクパパの野営地があり、その近くにブラックフット・スー
が陣取っていた。フンクパパはつねに円陣の入り口ないしその外れに野営
したが、それが彼らの名前の由来だった。そこから下流に向かって、
サンサーク、ミニコンジュウ、オグララ、ブリュレの順で並び、北の外れ
にはシャイアンがいた。
時はウワミズザクラの熟れる月のはじめで、昼間は暑く、子供達はグリージ
ーグラスの雪解け水で泳げるほどだった。狩猟隊はビッグホーン方面を
往復し、彼らはそこでカモシカだけでなく、数頭の野牛も発見した。
女たちは草原で、野生のかぶらを掘った。いつでも一つないし二つの部族が
踊りを催さぬ夜とてなく、時として酋長が集まり、会議を開くこともあっ
た。「異なった部族のしゅうちょうたちは、それぞれ対等の立場で顔を
合わせた。だが、他の誰よりも上だと見なされていた者、それは
シッテイング・ブルであり、彼は野営地全体を統括する酋長の最長老と
目されていた。シッテイング・ブルは、ローズバットの勝利が夢のお告げ
の実現だとは信じなかったが、しかその頃、この地域で青色服の姿を見た
ものは皆無だったので、ロングヘアー・カスターがローズバットに沿って
進んでいることを、6月24日の朝まで知らなかった。その翌朝、斥候が
もたらした情報によれば、兵隊はローズバッドとインデイアンの野営地の
間にある最後の高い尾根を越え、リトルビッグホーンに向かって進んでいる
ということだった。そのニュースは、さまざまな形でインデイアンに伝え
られた。スー族の会議酋長の一人、レッドホースは語っている。「私は
4人の女と共に野営地から少し離れた所で野生のかぶらを掘っていた。
出し抜けに、女の一人が野営地からあまり遠くないところに舞い上がって
いる砂塵に、私の注意を促した。すぐに兵隊が野営地に突撃をかけてくる
有様が目に映った。野営地に向かって、私と女は走った。兵隊の突撃は
急だったので、会議を開く暇もなく、我々はあちこちに声をかけた。
スーたちは馬に乗り、銃を手にすると兵隊と戦うために出て行った。女と
子供は馬に乗って出発した」
インデイアンが野営地の中で最初に見た兵隊はカスターの率いる大隊だっ
た。だが、ブラックフット・スーの小屋の方角から銃声が聞こえ、
マーカス・リーノウ少佐が野営地の南の外れに奇襲攻撃をかけていたことに
気が付かなかった。「テイピーの柱に彼らの弾丸が当たってカタカタと
音を立てた。男は、フンクパパもブラックフットもミニコンジュウも馬に
乗り、ブラックフットのテイピーへと急いだ。ずっと遠くを進むロング
ヘアーの兵隊の姿はまだ見えた。部族の男たちは、よもや攻撃されることは
あるまいと思っていたところに不意打ちをかけられたわけだが、戦いの歌を
歌いながらブラックフットの村の裏手へと繰り出して行った」
フンクパパの野営地にいたクロー・キングは、リーノウの騎兵は約400
ヤードの距離から発砲し始めたと語っている。フンクパパとブラック
フット・スーは徒歩でゆっくりと後退しながら、女と子供が安全な場所に
逃れる時間をかせいだ。
白人部隊の急襲の知らせをを受けて、トウームーンはシャイアンの戦士に
馬の用意を命じ、女にはテイピーの村から非難するように言った。「私は
急いでシッテイング・ブルの野営地にむかった。そこで、白人の兵隊
(リーノウの部下)が一線になって戦っているのが見えた。インデイアンは低地
に陣取っていたが、じきに前進して兵隊を混乱におとしいれた。スーと
兵隊が入り乱れ、全員が盛んに発砲していた。やがて兵隊が後退し始め、
逃げる野牛のように川床に追い詰められてゆく有様が見えた」
インデイアンを結集し、リーノウ隊の攻撃を撃退した戦闘酋長は、
筋骨逞しく厚い胸をした36歳のフンクパパで、ビジあるいはゴールと呼ばれ
る戦士だった。ゴールは孤児としてこの部族とともに育った。まだ若いうち
から猟人としてかつ戦士として優れた能力を発揮した彼を、シッテイング
ブルは義兄弟にした。数年前、政府の委員が1868年の条約の一環として、
スー族に農業に転向するようにすすめたとき、ゴールはフンクパパの代表
としてライス砦におもむいた。「我々は裸で生まれた。獲物を狩って生活
するように教えられたのだ。あなた方は、我々が農業を学び、家に住み、
あなた方のやり方を真似しなければならないと言う。だが、仮に大きな海の
向こうに住む人間がやってきて、あなた方に農業をやめて家畜を家畜を
殺さなければならないと言い、家や土地を取り上げてじまったとしたら、
あなた方はその相手と戦わないだろうか?」と彼は言い、白人の独善的な
思い上がりをついた。リーノウの攻撃を食い止めるために採用した自分の
戦術についても、シンプルな言い方をした「女と子供は急いで下流に移動
させた。…‥女と子供が男の乗る馬を捕まえた。男はそれに乗り、リーノウに
反撃を加え、相手を食い止め、森に追い込んだ」軍事上の言い回しを使えば
ゴールはリーノウ隊の側面を突き、敵を森に後退させたのである。彼はさら
にリーノウをおびやかし急いで退却することを余儀なくさせ、インデイアン
その機に乗じて相手を総崩れにさせた。その結果、、ゴールは数百人の戦士
を引き上げ、カスターの縦隊に正面攻撃をかけることができた。一方、
クレイジーホースとトウームーンがその側面地背後をたたいた。
フンクパパと行動を共にしていたクロー・キングは伝えている。「わが戦士
の大部分がいっきょにてきの前面におどり出し、我々は馬を駆ってそこに
突っ込んだ。それと同時に、両手側面からも戦士が飛び出してきて、相手の
周囲をまわり、やがて完全に包囲した。」対岸から見ていた13歳の
ブラックエルクは、丘の上に大砂塵が舞い上がり、やがてそこから無人の
馬が何頭も駆け降りてくるのを目にした。プテ・サン・ワステ・ウィンは
語る。「兵隊はやたらに発砲したが、スーのねらいは的確で、兵隊は
バタバタと倒れた。村の男の後に続いて川を渡った女たちが丘に着いた時
は、生きている兵隊は一人も見当たらなかった」
この戦いから1年後に、カナダでインタビューに答えた折に、シッテイング
ブルは、自分はカスターを見なかったが、他のインデイアンは彼を見ており
殺す直前にそれをカスターだと認めたと語っている。だが彼は、誰が
カスターを殺したか言わなかった。
誰が殺したにせよ、ブラックヒルズに盗っ人街道を作ったロングヘアーは
部下の全兵士と共に死んだ。しかし、リーノウの兵隊は援軍をえて、川の
ずっと下流に立てこもっていた。会議が開かれ、野営地を引き払うことが
決まった。戦士は弾薬をほとんど使い果たし、新たに大勢の兵隊を迎えて
戦うのは愚かしいことだった。
日没前に彼らは谷をさかのぼってビッグホーン山脈にむかった。各部隊は
その途中で別れ、しれぞれ別の方向を目指した。
ロングヘアー敗北の報がつたわると、東部の白人はそれを虐殺と呼び、
人びとは怒りに湧き立った。彼らは西部のインデイアンを罰することを
望んだ。ワシントンの大会議は、見つけたインデイアンを片っ端から処罰
することに決めた。すなわち、保留地に留まっていて、戦闘に加わらなかっ
た者たちである。
p13 入植の始まりーーシベリアからの移住の波
北アメリカの入植は1492年(いわゆるコロンブスによるアメリカ発見)よりもはるか
前に始まり、ヨーロッパではなくてロシアから起こった。最初のアメリカ人は、
約1万5000年前から1万2000年前にかけて、北東アジアのシベリアから移住して
来たのである。移住者たちは少人数の集団を組んで、毛皮の厚いマンモスを含む
毛むくじゃらで厚い肉をまとった草食の(しかし危険な)大型哺乳動物の群を、
あちこち広く追ってまわった。
世界の氷がより大量に北極の氷床へと凍りつき、海面が約360フィート下がって
シベリアとアラスカが繋がった氷期に、狩猟者たちは穂先に石器をつけた槍を
携え、革の覆いをつけた小舟で海岸に沿って進むか、または歩くかして、
北アメリカに入ってきた。約1万年前の全地球的な気候温暖化によって太平洋が
海面上昇し、その後陸橋が消え失せることになろうとは、彼らは知る由もなかった。
続いて約9000年前にアサバスカン語系の移住者による第二の波があって、最終的に
アメリカ南西部まで移住し、そこでアパッチ及びナヴァホとして知られるようになった。
第三の波は約5000年前にやってきて、この時はイヌイットの祖先が北アメリカ
極北海岸に入植し、また彼らと近縁のアリュートがアラスカの南と西にある島々を占領
した。その間に、第一の子孫は南へ東へと、北アメリカ中に、更に南アメリカへと
広がっていった。研究者にはパレオ・インデイアンとして知られる彼らは、最初は15~50
人ほどの小さなバンドで、狩猟と採集をして生活した。大型猟獣を常食にして、(食べる)
量は豊かだったおかげで、パレオ・インデイアンの人口は増加した。バンドは大きく
なりすぎて一つの場所で維持できなくなると分裂して、ほとんどは他の場所に移った。
およそ9000年前までには(さらに前かもしれないが)先住民は、ベーリング海峡から
約8000マイル離れた、南アメリカの最南端に達していた。
🦊 この本が出版されたのが1970年で、ベトナム戦争に絡んで
大ベストセラーになったそうだが、それで何かが変わった訳ではなく、
アメリカ人は相変わらず「白人のグレート・アメリカ」に弱い。
(特にトランプの独演会に集まる人たちを見る限り)
アメリカ政府は、いわゆる「チヂミ思考」を学校教育に持ち込まない
よう、手を打っているらしい(との噂だ)
イギリス王権から資金援助を受けた「領土拡大請負人」集団は、
独立後もアメリカ政府に引き継がれて、「白人入植者の土地拡張要求」
に応えて活動を続けた。そして、ワシントンもベンジャミン・フランクリン
も、その中に含まれていたという。・・・・
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銃、病原菌、鉄
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銃、病原菌、鉄
ジャレッド・ダイアモンド著
草思社文庫
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